初代孤舟は昭和初期に趣味で初めたヘラブナ釣りであったが、既成の竿に疑問を持ち、師を持たず自分でへら竿を創作した。洋画、書、琵琶など芸術的な才にめぐまれ、生涯を通じて芸術家としての感性で、また技術者として理論的に、さらに釣り人として実践する中でへら竿を徹底的に研究し、機能と芸術を両立させ、独創的なへら竿を完成させた。現在のへら竿はこの孤舟のへら竿の調子が基本になっているが、未だに孤舟を越える作者がいないのも事実である。竿師をいわゆる職人から作家としての竿師に高めた功績も大きい。まさに天才である。
 釣竿は調子、機能が基本で、機能追求こそ第一義としたが、美的、芸術的追求もおこない、独創的な節巻き(いわゆる段巻き=弧舟はこの言い方は嫌いであった)や、握りの美しい形の追求もおこなった。しかし、いわゆる表面的な奇麗さには重点を置かず、(芸術的な完成度は類を見ないものがある)表面の仕上がりはあまりきれいとは言えない仕上がりのものがあった。しかし、竿の魅力は少しも損なうものではなかった。生涯を通じて理想の調子と芸術的な完成を求めて徹底的に研究した。まさに求道の人であった。
 次男正志は幼少の頃より無類のへら釣り好きで、親の職業が竿師である事を知らずに近くの池に釣りに出掛けた。後、初代と共に釣りに出かけたが、11才より初代の助手として修練を積み、二人三脚で孤舟へら竿を制作した。1960年代の孤舟が最も充実した作品を作った時期には二代目が中心になって制作を行った。 1972年8月。初代死去77才。これによリ、孤舟を襲名。この時すでに技術は完璧に継承されていた。後、初代が「カーボンこそ完璧なへら竿を作る素材である」として次の研究テーマとしていたことを引き継ぎ、カーボン竿を研究、理想的な竿を創作する。そして、装飾的な竹竿が主流になっている中、へら竿の基本は調子、実用品であることを連綿として受け継いでいる。
         

初代『孤舟』略歴

明治30年大阪市北区曾根崎中2丁目192番地に出生。

本名     羽田鉄太郎     
洋画名       哲朗     
琵琶教師号  法糸山旭匠     
 釣竿作者として 旭匠及び弧舟を名乗る

4才で母、美代死去により、祖父、旧篠山藩士羽田菊蔵善重に引き取られ、篠山にて幼年時代を過ごす。
このとき、釣竿を作るため、篠山の山中に竹取りに入るなど、後年竹竿制作の契機になっていた。
明治45年、古市尋常高等学校高等科、全科主席卒業。
旧篠山藩藩校、篠山鳳鳴義塾に特待生として入学予定であったが、祖父が急病、死去により断念。

祖父の死去により大阪に帰るが、義母、義兄弟がすでにあり、籍を分ち、独立。18才。
大阪市内にて苦渋の生活。薬店で丁稚、寿司店見習いから1年有余の後、調理責任者となるが、
絵画修行のため辞職。

逓信省に就職。大阪郵便局等に勤務
関西の明治画壇の重鎮、赤
愚村(孤舟の叔父)のもとで、洋画の修行をおこなう。
また、さんきゅう橋の書道塾にも通う。
郵便局勤務多忙を極める中、絵画の修行も続け、結核におかされる。
再三の血痰を見ながら京都帝展に作品を搬入するも落選。
直後、喀血。入院。院長勧告により絵画制作を断念。
一時休職、退官。以降絵画制作は趣味として継続。1年後、逓信省再奉職。

筑前琵琶、法糸山旭笙に入門、「旭匠」を贈られる。琵琶演奏とともに琵琶の制作も行う。
劇場出演、ラジオ出演などで活躍する。
昭和6年琵琶奥伝免許、「法糸山」を贈られる。しかし家元制度の壁に琵琶界を去る。

昭和7年。浪速郵便局勤務中に竹材店で竹を買い釣竿を独学で制作。
この時が弧舟へら竿制作の始めである。
(趣味として始めた釣りであるが、市販の竿に疑問を感じ、自己流で改良を行なった)
昭和12年。長男、次男肺炎になり、酸素ボンベ購入のため愛竿「旭匠」を手放す。

昭和13年。
この頃、「旭匠」のへら竿が評判になり、大阪千日前裏の釣具店「あわじや」
のたっての依頼で、作品を依託販売する。
旭匠が竿を業とする始めとなった。

昭和17年。
逓信省を退官。以後、釣竿一本で生計を立てる事になる。

昭和19年〜21年、終戦前後。
竿の注文は少ないながら竿の制作をつづけるが、生計のため酒井鉄工所に勤務。
昭和22年より再び釣竿制作専業となる。次男正志(11才)、小学校に通いながら旭匠助手となる。
昭和23年ハス竿に孤舟銘を使用。昭和24年、ヘラ竿に孤舟銘を初めて使用。

昭和25年。
竿の制作及び制作用具の改善に日夜打ち込み、睡眠不足、過労により結核再発。
昭和28年回復、この間次男正志(現二代目)は中学校に通いながら献身的に弧舟を手助けした。
(竿に年号を記入したのは昭和27年/1952年以降である。)

昭和35年(1960年)。
かねてより、関西よりも関東で評価が高く、
浅草へら鮒釣研究会の横井英夫氏他の招きにより、上野「梅川亭」にて「旭匠を囲む会」を開催。
その際、関東の釣り場を視察釣行する。この時の野釣りの経験により、
以後のヘラ竿制作の大きな転機になり、孤舟の最も充実した竿作りが行われる事になった。

昭和36年(1961年)。
西武百貨店にて、「釣りのすべて展」孤舟道場展開催。

昭和42年(1967年)。
写真家木村伊兵衛「職人」シリーズ、釣竿師羽田孤舟掲載。

昭和43年(1968年)。
伊勢丹にて「日本の誇り職人の手」に出品。

昭和45年(1970年)。
アサヒカメラ増刊、「木村伊兵衛」職人シリーズ掲載。

昭和47年(1972年)8月24日。
座骨神経痛、胃かいよう等を併発して死去。

二代目『孤舟』略歴

昭和11年6月羽田鉄太郎(初代孤舟)の2男として大阪市に生まれる。
男兄弟4人は皆釣り好きであるが、次男正志はとりわけて釣りが大好きあった。
父親が釣竿作者である事を知らない幼少より近くの池を釣り歩いていた。
釣り好きと物作りに器用な才能を認められ、昭和22年(11歳)小学校に通いながら初代孤舟の助手となる。
以降、へら釣りを最高の趣味としてきた。
また、父が制作した竿のテストのため、時には学校を休んで竿のテストを行った。
竹材の焼き入れなど、技術の修得には常に父親の鉄拳が飛んで来るなど、徹底したスパルタ教育を受ける。
当初より穂先き削りは特にすぐれ、初代の制作年を記入した作品(1952年)以降の穂先は殆ど二代目の作品である。
初代が結核で思うように制作が捗らなかった昭和25年〜昭和28年。
猛然と技術修得に努力し、初代の健康を取り戻す頃には一応の技術をマスターし、
初代の片腕として、二人での制作体制が出来て行った。
昭和35年(1960年)、関東釣り場視察に初代に同行。以来、竿の設計に積極的に関わり、竹組から仕上げまで、制作の8割をこなす様になった。超多忙の最中、『孤舟へら竿道場』にて初代と共に紀州のへら竿作者が弟子入りし、また孤舟の制作道場を訪れ、教えを乞い、その技術を惜し気無く公開した。「げてさく」「恵舟」「影舟」等の紀州竿師や俳優の山村聡など多くの趣味人をも指導したが、具体的な技術指導は二代目孤舟が行った。
昭和47年7月。初代逝去により2代目孤舟を継ぐ。
昭和49年7月。西部百貨店にて孤舟展を開催。
昭和51年7月。昭和56年6月。平成3年5月にも孤舟展を各地で開催。
昭和57年3月。へら研阪神クラブのヘラブナ展にて孤舟展を開催。


孤舟へら竿の基本

へら竿の基本は調子。装飾は二義的なものである。基本の調子は弧舟竿の「純正鶺鴒」と刻の入ったもの。
「抜け過ぎず、被らず、胴に乗る」。穂先きから元竿までがバランスよく十分に力を発揮することが重要である。
基調は胴調子であるが、とかく誤解を招くので、全体調子とあえて言う。
すなわち、多少の先調子、胴調子は個性の内であるが、先調子や胴調子ではなく全体調子である。
柔らかい、硬いは竿の使用目的により使い分けるもの。善し悪しの基準ではない。
強い竹の素材の力を最大に発揮するように設計し、制作され、硬軟それなりに力強さを感じる事が大切である。

竿に掛かる竿各部への力の移動
 1) 合わせた瞬間。穂先きは道糸とほぼ一直線になり、竿先のバネは生かされていない。元竿、元上に力
が加わり、竿を上に上げて来ると力の基点は次第に先の方に移動して行く。
2) 取り込みの最終。玉網に入る間際には穂先きや穂持ちなどに移動し、先端部のパワーがもの言う。
   特に昨今の野釣りのような大型釣りでは,この穂先き、穂持ち、胴中あたりのパワーが大事で、やたら
   元竿が太くて先きが細い竿(いわゆるカッツケ竿や先調子竿)は一見強そうに見えるが竿全体の力を発揮出来ていない竿である。野球の投球で、手首や腕だけで投げるのではなく、体全体で投げるのと同じである。しかし、未だ誤解してこの先調子を強い竿として好んでいる人があるのが現状である。

竿の各部の呼称と握り

竿の各部の呼び名は書物などに多く紹介されているので、曖昧なところや問題なところだけを紹介します。
竿師や竿メーカーによって異なるところがあり、修理の時など、注意が必要。竹竿の場合、手元から1番2番と先に番手が大きくなって行くのが旧来であるが、最近のカーボンロッドでは先から1番と下がってくるなど、統一されていないので、元から3番とか、先から3番と言うのが間違いがなくてよい。なお、手元は元竿、次は元上。先端は穂先き、次は穂持ちというのは統一された言い方である。
 また、握りと呼ばれている手元のグリップであるが、最近は籐巻きや乾湿、研ぎ出しなどが多いが、表面を漆やウレタン塗料で表面を塗り上げているので、滑り易く使い難いので、せいぜい11尺までの短竿までなら何とか使える。機能面からは綿糸巻が最上である。また、カーボンロッドでは各種の素材が研究されているが、握りの表面がやや荒めでがっちり手に馴染むものが良い。

竹竿の修理について
 竹竿の修理は信頼のおける店から竿名と同じ作者が健在である以上その作者に依頼するのが原則である。店によっては身近な竿師に依頼する場合があるので、同じ作者に依頼するように指定して下さい。
 竿の作者は自分なりの経験や考えで竿を作っています。竿の表面にあらわれない工夫が施されています。高いレベルの作者の竿を未熟な作者が修理する場合に問題が起こります。時には修理不可能に陥いる事もあります。弧舟の竿も以前は他の有名な竿師が修理するケースがありましたが、結局竿は修理出来ず、弧舟の所に戻って来た時には故障した時よりさらに悪い状況になっていたことがありました。
 また、作者が作った竿は作品です。ちょうど画家が絵を描くように。痛んだ絵の修理はその作者が現役である以上他の作者が加筆する事はありません。竿は絵画程ではありませんが、これに近い存在です。また、止むをえず、他の竿師が修理をした場合は修理したことを竿に修理した竿師名を入刻し責任を明確にすべきです。

孤舟竿の調子と階級
孤舟竿の調子の基本は三調子
      鶺 鴒・・・純正鶺鴒 硬式鶺鴒・・へら竿の基本形。へら竿の中心の調子。硬式は全体にテーパ
   ーが強めで長竿に多い。    
小々波・・・主に若竹を使用し、軽快で小物釣り用の竿。趣味的な竿。作品は少ない。

川 蝉・・・主に古竹を用い、野釣りや大型釣りにも十分堪えうる重厚強靱な竿。 

この他、バリエーションが各種あるが、微妙な変化で、一般には大変難しいので省略するが、
ヘら竿の基本は純正鶺鴒か、硬式鶺鴒で、圧倒的に多い。また、吐月峰(とげっぽう)
はこの三調子の派生調子であるが、孤舟カーボンに採用されている硬式鶺鴒と吐月峰は極微妙な変化である。


階級は時代により多少の変化がある。
 非売、秘別選、飛ぬけ、ぬけさく、準ぬけ 、無刻(刻なし)の順であるが、この他にも多少のバリエーションがあり、旭匠時代と孤舟以降にも変化がある。また、非売については、最上の階級ではあるが、孤舟の主観的な思い入れがあり、孤舟自身が使用するための刻の意味合いが大きく実際に孤舟が使用した竿であるが、ユーザーからの強い要望で流通したものである。この他、THはtetutarou hadaのイニシャルで、実験的な竿が多く、孤舟が使用したかなりレベルの高い竿である。また、竿は使用する事により、成長し、未使用の新品より調子は向上するもので、当初よりランクアップする事もある。また、修理により部品替えしてランクアップする竿もある。また、逆に、無理な使用や長年の使用によりグレードダウンする場合もある。先代の古い竿を購入の場合は竿の刻も大切ですが、竿の実力をしっかり評価する事が大切です。

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